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米沢藩
米沢藩(よねざわはん)は、羽前国(旧出羽国)置賜郡にあって現在の山形県東南部(置賜地方)を治めた藩。 藩庁は米沢城(米沢市)。 藩主は上杉氏。 家格は外様で国主、石高は30万石、のち15万石から18万石。
歴史
米沢は戦国時代である1548年から1589年、1590年から1591年の間に伊達氏の本拠地であったが、豊臣秀吉によって伊達政宗が陸奥岩出山に転封された後、会津に入った蒲生氏、ついで上杉氏の支配下に入った。 上杉景勝は家老・直江兼続に30万石(一説には甘粕氏の刈田郡白石城を含め32万石)を与えて米沢に入れ、伊達氏及び山形の最上氏に対する抑えとした。
しかし上杉氏は関ヶ原の戦いに先立って徳川家康に敵対したため、1601年(慶長6年)に上杉景勝は120万石(陸奥国会津・白河郡・田村郡・安達郡・信夫郡・伊達郡、出羽国田川郡・飽海郡・置賜郡、越後国東蒲原郡・佐渡)を30万石に減封され、居城を会津から米沢に移させられた。 兼続は米沢城を景勝に譲り、米沢藩が成立する。 米沢藩領は、はじめ上杉氏の旧会津領120万石のうち出羽国置賜郡(置賜地方)18万石と陸奥国伊達郡(現伊達市、伊達郡、福島市)および信夫郡(現福島県福島市)12万石からなっており、米沢からは峠を隔てた陸奥側の抑えとして福島城に重臣・本庄氏を城代として置いた。
1664年(寛文4年)に3代綱勝が嗣子を定めないまま急死し、本来なら取り潰しとなるところ、綱勝の舅である会津藩主保科正之(徳川家光の実弟)の尽力によって、綱勝の妹と高家の吉良義央(扇谷上杉家の血を引く)の間に生まれた子・綱憲が末期養子に認められ、半減の置賜郡内15万石で存続が認められた。
相次ぐ減封にも拘らず、家臣の数はほぼ120万石の頃のままだった。 このため、当然のごとく財政難に苦しめられ、民衆も困窮。 これに心を痛めた8代目の重定は幕府へ領地を返上しようと真剣に考えるほどであったが、9代藩主治憲(鷹山)の藩政改革で財政の再建を果たした。 また、置賜郡内の旧領のうち3万石(斉憲の代に上杉領となる)、越後国内に1万石の天領を幕府から預かっている。
戊辰戦争では会津藩の討伐をはかる新政府軍に対し、保科正之への恩義もあることから仲介に務めるが、果たせずに奥羽越列藩同盟に加わり、仙台藩とともにその中核を担うこととなった。 仙台藩が奥州街道・常磐方面を担当したのに対し、米沢藩は故地でもある越後を担当したが、最終的には新政府軍に敗北を重ね、羽越国境の大里峠まで迫られたところで降伏した。 その後、新政府軍の命により庄内藩討伐のために兵を出し、会津藩に対しても降伏を説得した。
米沢藩は戦後の処分で14万7000石に減封。 翌1869年(明治2年)に蔵米支給の支藩米沢新田藩を併合した。 米沢藩は宮島誠一郎の指導のもと、版籍奉還などの新政府の改革を積極的に支持していく事で「朝敵」としての汚名返上に務めた。 1871年(明治4年)廃藩置県によって米沢県となった。 その後、置賜県を経て山形県に編入された。 藩主家は1884年(明治17年)、伯爵となり華族に列せられた。

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藩政
米沢藩は120万石からの大減封を受け、しかも佐渡金山を失って大幅な収入減を受けたが、越後時代から付き従ってきた家臣の召し放ちを極力行わず、6000人と言われる家臣団を維持し、針小棒大な表現ではあるが、上杉家は、120万石規模の家臣団を維持したと云われている。 そのために、江戸時代初期から厳しい財政難に苦しめられた。
米沢城は、伊達氏時代からの三階櫓を中心とした平城であったが殆ど拡張を行わず、下級武士は手狭な城下町の外に住まわせて、半農半士の生活を送らせた。 このような下級武士のことを原方衆という。
それでも初期の米沢藩は直江兼続の執政によって新田開発に努め、表高30万石に対して内高51万石と言われるまでに開発を進めたが、1664年の15万石への半減で藩財政は再び大きな打撃を受けた。 これ以降の実高は30万石程度(幕末の18万石への加増時には35万石前後)であるが、依然として家臣団は減らさなかったので、財政はますます厳しくなった。 因みに、明治初年の史料を持って比較すると、加賀102万石の前田家の場合は、内高が120万石で、士族7077戸、男12414名、卒族戸数9474戸、男14029人、であった。 一方の米沢藩14万7千石(列藩同盟処分の削封後)の上杉家の場合は、内高が30万石で、士族3425戸、男7565名 卒族戸数3308戸、男11980人であった。 この比較から、米沢藩の厳しさは一目瞭然である。
にも拘らず、綱憲は実の両親である吉良義央夫妻の浪費による負債をしばしば立て替えたり、麻布藩邸などの新築、参勤交代などでの奢侈を行い藩貯金を一般会計に流用するまでにいたる。
7代藩主宗房の代では領内農村の荒廃がすさまじく、年貢未納も嵩んでいたため、元文3年には当年分完納を条件にそれ以前7ヶ月の未納分の延納を許可する有様であった。 次の重定の代になると本人が派手好きで奢侈に走ったことに加え、寛永寺普請手伝いによる5万7千両超の工事費や宝暦5年の凶作損毛高7万5千8百石超の被害も重なり、ついに借財が莫大な額に上ったので、竹俣当綱(美作)の進言に従い明和元年に幕府に15万石の返上を願い出ようとして、舅の尾張藩藩主徳川宗勝に諭される始末であった。
1767年(明和4年)、17歳で重定の後を継いだ養子の治憲(鷹山)は竹俣当綱と莅戸善政らを登用して藩政改革に乗り出した。
倹約令発布、農村統制の強化、絹織物の専売制実施等の財政再建と、桑や漆の植樹、縮織技術の導入や黒井忠寄による灌漑事業などの殖産興業政策を行って藩財政を立て直した。 また、特産品の青苧、紅花、蝋等も藩財政を助けた。 また、儒学者細井平洲を招いて藩校の興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)を設け、藩士の教育にあたった。 一方で、安永2年7月には家老の須田満主や奉行の色部照長や千坂高敦らによる竹俣一派排除訴訟(七家騒動)も起こる。
米沢藩では藩主上杉家の実質上の祖である上杉謙信が藩祖として祀られ、その遺骸を納めた甕は遠く越後春日山(新潟県上越市)から米沢に運ばれて米沢城本丸内に安置されていた。 上杉謙信崇拝に基づいた藩風は越後以来の家臣の召し放ちが少なかったこともあって独特の誇り高い気風を生んだが、その一方で体面を重んじ、頑固で保守的な面があって、そのことが鷹山の藩政改革の障害となったという見方もある。
しかし、鷹山隠居後も着実に藩政改革に取り組む名君が続き、米沢藩の改革は成功した。 治憲・治広の代には借財を返済し、5千両の囲い金(備蓄)もできた。 茂憲は戊辰戦争後に明治政府に対して軍資金名目で3万両を献上し、三条実美らによる改易論を封じ込め、奥羽越列藩同盟参加も戦死した家老色部久長の責任とすることが認められた。 また、廃藩置県の際、旧藩士らに旧藩の囲金や上杉家の備金などから10万両余を分与。 また、転じての沖縄県令としての治績も評価は高い。

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歴代藩主
上杉(うえすぎ)家
外様・国主・大広間 30万石→15万石→18万石→14万7千石
景勝(かげかつ)〔従三位・中納言、弾正少弼のち越後守〕長尾政景の次男。 母方の叔父である上杉謙信の養子となる
定勝(さだかつ)〔従四位下・左近衛少将〕
綱勝(つなかつ)〔従四位下・播磨守、侍従〕
綱憲(つなのり)〔従四位下・弾正大弼、侍従〕吉良義央の長男(定勝の孫)。 綱勝の末期養子 15万石に減知
吉憲(よしのり)〔従四位下・民部大輔、侍従〕
宗憲(むねのり)〔従四位下・弾正大弼、侍従〕
宗房(むねふさ)〔従四位下・民部大輔、侍従〕同母弟
重定(しげさだ)〔従四位下・大炊頭、侍従〕同母弟
治憲<鷹山>(はるのり)〔従四位下・弾正大弼のち越前守、侍従〕秋月種美の次男(綱憲の曾孫)
治広(はるひろ)〔従四位下・弾正大弼、少将〕重定の次男
斉定(なりさだ)〔従四位下・弾正大弼、少将〕上杉勝煕の長男(重定の孫)
斉憲(なりのり)〔従四位上・弾正大弼、中将〕 18万石に加増
茂憲(もちのり)〔正二位・式部大輔、侍従〕 14万7千石に減知 伯爵

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支藩
米沢新田藩
米沢新田藩(よねざわしんでんはん)は米沢藩の支藩。 享保4年(1719年)に5代藩主吉憲が弟の勝周に領内の新田分1万石を分与して成立したが、米沢城内二の丸に藩庁を居所とする藩内分家であった。 藩主はたびたび実子がなく本藩の藩主から養子を迎えている。
江戸藩邸は麻布の飯倉片町に上屋敷があった。 なお、他に藩邸は所有していなかった。
明治維新後、本藩の所領削減もあって存続が難しくなり、明治2年(1869年)に本藩に併合された。
歴代藩主
上杉(うえすぎ)家
外様 1万石 (1719年 - 1869年)
勝周(かつちか)〔従五位下、駿河守〕綱憲の四男
勝承(かつよし)〔従五位下、駿河守〕
勝定(かつさだ)〔従五位下、駿河守〕重定の三男
勝義(かつよし)〔従五位下、佐渡守〕上杉勝煕の四男(重定の孫)
勝道(かつみち)〔従五位下、駿河守〕斉定の四男

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藩邸及び江戸での菩提寺
江戸藩邸は文政年間当時、外桜田御堀通り(現在の法務省敷地内)に上屋敷、麻布に中屋敷、芝白金に下屋敷があった。 また京都藩邸は境丁通り二条下る丁にあった。
麻布藩邸は上杉綱憲により新築された。 京都藩邸は一時、森利真(平右衛門)が売却したが竹俣当綱(美作)が買い戻している。 また、天明8年(1784年)の京都の火事で一時焼失。
江戸における菩提寺は浅草新鳥越にあった真言宗寺院、金知山宝蔵院で、米沢新田藩も同様であった。
藩職
米沢藩の重職は、江戸家老二人・奉行三人・侍頭五人の計十人からなる。 これらの重職には藩内の上士階級である侍組の中でも特に家柄の高い家である分領家のみが就くことができる。 分領家は全部で十四家あるが、信濃衆と揚北衆出身の家の割合が多い。 しかし、奉行職については寛政10年(1798年)に中之間組出身の莅戸善政が奉行に登用され、慣行が破られることになる。
その他、中堅として奉行の支配下に大目付、仲之間年寄(三人)、勘定頭、役所役、町奉行(二人)、郡奉行(二人、一時期廃止)が置かれ、大目付支配下に御使番(八人、後に五人)、勘定頭支配下に次勘定、郡奉行の下に代官(五人)が置かれた。 また奉行の補佐役として宝暦元年に中老職が新設された(但し一時期廃止されていた)。
この他、藩主直轄として役屋将、儒者、小姓頭が置かれ、小姓頭の支配下に側役、近習が置かれた。 小姓頭は当初、永代侍組しか就任できなかったが、与板組出身の一代侍組の森利貞(平右衛門)の登用で慣行が破られる。
最近の人妻は孤独で寂しいのです。だから 人妻の本当の内面を見ましょう。
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