仙台藩

仙台藩
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    仙台藩

    仙台藩
    歴代藩主
    伊達(だて)家(松平陸奥守家)
    外様 大広間 国主(大身国持) 62万石→28万石
     
    政宗(まさむね)〔従三位、陸奥守・権中納言・参議〕
    忠宗(ただむね)〔従四位下、美作守のち陸奥守・権少将・侍従〕
    綱宗(つなむね)〔従四位下、陸奥守・(隠居後)若狭守・権少将〕
    綱村(つなむら)〔従四位上、陸奥守・左近衛権中将〕[3]
    吉村(よしむら)〔従四位上、陸奥守・左近衛権中将〕
    宗村(むねむら)〔従四位上、陸奥守・左近衛権中将・侍従〕
    重村(しげむら)〔従四位上、陸奥守・左近衛権中将・侍従〕
    斉村(なりむら)〔従四位下、陸奥守・左近衛権少将・侍従〕
    周宗(ちかむね)〔早世のため官位なし〕[4]
    斉宗(なりむね)〔従四位下、陸奥守・左近衛権少将〕
    斉義(なりよし)〔従四位下、陸奥守・左近衛権少将〕
    斉邦(なりくに)〔従四位上、陸奥守・左近衛権中将〕
    慶邦(よしくに)〔従四位下、陸奥守・権中将〕
    宗基(むねもと)〔正四位〕反明治新政府の罪により28万石に減封
    宗敦(むねあつ)〔正四位〕


    経済

    経済
    仙台藩の主な産物は米である。
    江戸時代には、北上川流域の湿地帯の開拓などの新田開発によって実高100万石とも言われるほどに多くの米を収穫できるようになった。
    また、買米制と呼ばれる事実上の専売制度が導入されていた。
    その米を東回り航路で江戸に運んで大きな利益を得た。
    一時期、江戸に流通する米の半数は仙台米と言われた時期もあった。
    そのため、石巻はこの航路の拠点として大いに発展した。
    また、一部の米は海産物とともに大坂にも運ばれ、上方との交流も盛んであった。
    これによって藩財政・農民の暮らし共に潤った。
    ただし買米制にも凶作に弱いなどの弱点があった。
    ひとたび、凶作が起きると領内は大変な食料不足に見舞われ、農民だけではなく武士階級の者までがバダハタと餓死した。
    これは他の藩には全く見られない現象であった。
    現米収入のみに限定しても楽に100万石を超え、表高で上回り幕府に融資を行うほどであった加賀藩・殖産興業に成功した末期の薩摩藩よりも当初から財政的に豊かであり、政宗の時代にはローマへ単独の藩で使節を送るほどの力を有していた。
    江戸時代末期の九州人の安井息軒の読書余滴に「二百万石余」、同じく江戸時代末期の九州人の帆足万里の『東潜夫論』には「二百五十万石」との記述がある。
    ただし、東潜夫論は、佐渡12万石(1.7万石)、隠岐6万石(0.5万石)と、太閤検地の10倍表示されており、注意を要する。
    佐渡国の佐渡金山についても触れており、米の生産量以外の豊かさも含んだ指標として石高が使用されている。
    だが、米に頼りすぎた経済は藩に他の産品の開発の動機を失わせ、藩財政は米の出来・不出来及び米相場の状況によって翻弄されることになる。
    凶作が起きれば藩は大借金を抱え、豊作でかつ米相場が高値推移の年には積年の借金が一気に返済できてしまうといった具合である。
    まさに「農業は博打である」という格言を地で行く藩経営であった。
    また、三陸沖に漁場を持ち、良港に恵まれたことなどから、三陸海岸で採れるアワビやサメを、干し鮑やフカヒレに加工して「長崎俵物」として中国に輸出していた。
    三陸産の干しアワビは、中国の清において「吉品鮑:カッパンパオ」とよばれていたが、それは、当時仙台藩領だった現在の岩手県大船渡市吉浜から名前が取られている。
    米の生産高は、およそ100万石強であるが、鉱山資源が日本国内としては豊富であり、鉄鋼業と、馬産を奨励して、成功したことや、三陸沖に漁場を持ち、良港に恵まれたことなどがあげられる。


    知行地構成
    知行地構成
    仙台藩の北に位置する盛岡藩とは、現在の釜石市南部・住田町北端・奥州市北端・北上市南部・金ケ崎町北端を通る線を境界としていた。
     
    藩領
    俗に「伊達62万石」 といわれる。
    陸奥国内 - 現在の宮城県全域と、岩手県南部、福島県浜通り北部におよび、石高は約60万石。
    陸奥国外 - 各々飛地として存在し、計約2万石。
    常陸国(現在の龍ケ崎市を中心に信太郡・筑波郡・河内郡に9784石)
    下総国(豊田郡に270石)
    近江国(蒲生郡・野洲郡に9999石)
    (なお、上記括弧内の郡名は仙台藩領があった郡を示すが、郡全体が仙台藩領であったということではない)
    表高(将軍家公表石高)は62万石であり、加賀藩・薩摩藩に次ぎ、尾張藩とほぼ同じだが、実質的な財政規模は200万石級であったと言われている。
    また、幕末期には蝦夷地にも藩領が存在した。
    幕末、幕府は蝦夷地警護を奥羽諸藩に命じた。
    その際、仙台藩は現在の北海道白老町に元陣屋を置き、また、根室・厚岸・択捉・国後にそれぞれ出張陣屋を構え、択捉から知床、函館に到る地域を警護した。
    1859年(安政6年)9月には、東蝦夷地(現在の白老町から択捉島一帯にかけて)が仙台藩の領地となる。
    やがて、1868年(慶応4年)に戊辰戦争が始まり、仙台藩士たちは東蝦夷地から撤収した。
     
    支藩・分家筋
    支藩としては、陸奥国に一関藩・岩沼藩があり、仙台藩知行域内に浮かぶ島のような形で存在した。
    これらの藩は奥州街道沿いの軍事的要衝にあり、当主は仙台に屋敷を持ち、青葉城に登城していた。
    岩沼藩主および後期の一関藩主である田村氏は、外戚の姓を名乗っているが伊達氏の一門である。
    水沢藩(中津山藩) - 三代藩主綱宗の子伊達美作守村和が陸奥水沢3万石(後に同国中津山に移封)を分与され立藩した。
    のち、登城中における旗本との諍いが原因で1代で改易された。
    支藩ではないが、伊達氏一族の藩としては伊予国に宇和島藩とその支藩の吉田藩がある。
    このうち宇和島藩は、大坂の陣にて戦功により伊予国宇和島城10万石を政宗の長男・秀宗に賜ったのに始まる。
    なお、宇和島藩領は「新恩」であり、宇和島伊達家は仙台の分家筋ではあるが、仙台藩からの分知による支藩ではない。
       

    支配体制
    支配体制
    仙台藩では藩士の禄として、一般の藩では禄米が与えられるのとは違い、知行地を与える制度を取っていた。
    (但し、全ての家臣が知行地を持っていたわけでは無い、詳細は下記参照) これは藩主が動員できる兵数より、家臣が動員できる兵数の総数のほうが遙かに大きいという軍制を自然と作りだし、どちらかというと中世に近い支配体系である。
    知行地内では一定の裁判権も認められていた。
    仙台藩は大藩であるので、その家臣にも3万石・2万石といった大名級の知行地を持つ者もいた。
    仙台藩では上級家臣を一門、一家、一族、準一家、着座、太刀上、大番と7つの家格に分類した。
    また、藩士は藩内に散らばる城・要害・館・所・在所に居住し、仙台に屋敷を持っていた。
    このような支配体制を打破するため改革を目指したことが伊達騒動がおきた原因の一つだとも云われ、重臣の知行に切り込むことは藩内が乱れることを恐れてついにできずに明治維新を迎えた。
    大藩の仙台藩が戊辰戦争で善戦できずに大きな犠牲を払ったのは、こうしたことも要因である。
     
    禄高
    3000石以上(大進) - 衣服の制限緩和、乗物による登城可といったような特権が与えられた。
    100石以上 - 軍役規定により馬上出陣が義務付けられる。
    平士で100石以上の家は伊達世臣家譜に掲載された。
    100石未満 禄の支給形態としては、地方支給・蔵米支給・切米支給・扶持方支給などがあった。
     
    知行地の拝領形態
    城拝領 - 白石城の片倉家のみ  要害拝領 - 実質的には城と変わらない要害を拝領  所拝領 - 町場を拝領 在所拝領 - 知行所内に居屋敷、家中・足軽屋敷、山林等を拝領  在郷 - 知行所内に自前で居屋敷、家中・足軽屋敷を設置

    熟女
    家臣の家格
    一門  一門(大名) - 支藩・内分大名の事。
    将軍直臣であるが、仙台藩からも一門の家格を与えられている。
     一門(家臣) - 戦国時代の有力大名だった家や、縁戚関係にある家で、客分扱い。
    常時の藩政には関与しない。
    一家 - 戦国時代の在地有力領主、輝宗の頃までに臣従した有力家臣、伊達氏庶流の家など。
    準一家 - 戦国時代の有力大名の家臣や、在地領主
    一族 - 伊達家代々の家臣で、一家層よりも古くから臣従した家が多い。
    永代着坐
     宿老(永代着坐一番坐) - 伊達家代々の家臣で家政を司った。
    公式文書には奉行職と同格で連著した。
    奉行職に就任した場合は一家の待遇を受けた。
     着坐(永代着坐二番坐) - 正月、藩主に太刀と馬を献上し、坐に着いて盃をもらう。
    政宗の頃に低い身分から登用され、奉行職を歴任した家が多い。
      着坐(士分) 
      着坐(士分以外)
    太刀上 - 正月、藩主に太刀を献上し盃をもらう。
    主に歴々の家から降格した家が多い。
     太刀上一番坐(永代御盃頂戴)
     太刀上二番坐
    大番士  召出 - 正月の宴会に出ることができる。
    宿老以上の分家や、平士からの昇班が多い。
      召出一番坐
      召出二番坐
     平士 - 一般の侍層で召出と共に大番士とも呼ばれる。
    360人1組で10組が組織された。
    主に騎馬隊を構成。
    詰所により格付けされた。
      虎之間番士
      中之間番士
      次之間番士
      広間番士
    組士 - 下級侍層で士分とされるもの(もっと細かく分類されている)
    卒、他(足軽、職人、小人など) - 下級侍層で士分とされないもの
     
    一族以上の家柄を歴々と言い、衣服の制限緩和、乗物による登城可といったような特権が与えられた。
    また、宿老が奉行職に就いている時も歴々と同様の特権が発生した。
    太刀上以上の家柄を門閥と言った。
    組士以上の家柄が士分にあたり、それより下の家柄は士分以外として扱われた。
    それぞれの家格の家が更に家臣団(陪臣)を形成している。
    大進・歴々の家になると陪々臣までおり、平士クラスよりも禄高の多い陪臣も存在する。
     
    藩邸及び江戸における菩提寺
    文政年間当時、江戸藩邸は芝口三町目海手に上屋敷、あたこ下に中屋敷、麻生や深川猿丁、品川木挽丁に下屋敷があった。
    また京都藩邸は長者丁小川東へ入る丁にあった。
    また、江戸における菩提寺は芝の妙心寺派寺院である仏日山東禅寺で、一門の宇和島藩、伊予吉田藩、一ノ関藩も江戸での菩提寺としていた。
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